台湾の猫村にて

自己紹介

 はじめまして。早稲田大学文学学術院教授の真辺将之と申します。2011年3月までは早稲田大学大学史資料センターで働いておりました。2010年度より2014年度までは跡見学園女子大学の兼任講師も務めておりました。
 このページは一応「自己紹介」と銘打ってはいますが、単に経歴や研究業績を箇条書きで羅列しても、学生のみなさんには何の興味もないでしょうから、ここでは、学生のみなさんに少しでも参考になればと思い、私が早稲田大学に入って、歴史学に出会い、研究テーマにたどりつくまでの経過についてお話しするという形で、自己紹介とさせていただきたいと思います。なお、これまでの学歴・職歴や研究業績などについて知りたい方は、Researchmapをご覧ください。また著書や編集に携わった図書については、こちらのページで内容を簡単に紹介しております。

歴史学と出会うまで

 私は1973年11月22日に栃木県宇都宮市に生まれ、すぐに千葉県船橋市に移り、さらに千葉市美浜区にて20年近くを過ごしました。父親は小学校の教員で、母は専業主婦でした。特に教育熱心な親というわけでもなく、ごく普通に育てられ、小学校から高校まで公立の学校で過ごしました。将来も研究者になるつもりなど全くなく、漠然と、普通の会社員になるんだろうな、ぐらいに考えていました。
 中学2年生の時、まったく偶然でしたが、ラグビーの伝説の試合「雪の早明戦」の中継をテレビで見ました。選手の組むスクラムから湯気のあがるシーンに、心が震えました。この試合をきっかけに、早稲田大学という大学に興味を持つようになりました。そして大学のことを調べ、当時本屋に並んでいた早稲田大学関連の本を読んでいくうちに、この大学に入りたい、と強く思うようになりました。特に漫画研究会が出していた『早稲田画報』という本は強く印象に残っています。中学3年生の時には友達と一緒に千葉から電車に乗り大学見学に来て、大隈講堂をバックに写真を撮ったほどです。大学受験の時には、入れればどこでもいいと、早稲田を5学部受験しました。なぜそんなに早稲田に入りたかったのかはうまく言葉では説明できないのですが、早稲田はとても活気のある大学で、そこに行けば何か楽しいことが待っている、という根拠のない期待を抱いていました。そして1992年、念願かない、早稲田大学政治経済学部に入学しました。
 このような感じで大学に入ったため、当然大学で何を学ぶかというような目的意識はなく、政治経済学部に入学したのも、一番偏差値が高かったからという、今思うととても情けない理由からでした。そのため、入学するや否や、勧誘されたサークルにどっぷりとはまり、先輩たちに誘われるがままに遊びまわり、授業にもほとんど出ないで先輩や友達の家を泊りあるくような毎日でした。その結果、学年末の成績は惨憺たる結果となり、顔が蒼ざめました。こんな人間が将来研究者になり、母校の教員になるなんてことは、当時は誰ひとり予想しなかったでしょう(笑)。しかし、1年生の時の成績が最悪だったのは、かえって私にとっては幸いでした。崖っぷちに立たされた気持ちで一念発起、2年生になってからは授業にもちゃんと出るようになり、勉強に力を入れるようになりました。
 最初は90分間座って話を聞くことすら難しく、苦痛以外の何物でもなかった授業も、我慢して聞いているうち、次第に面白く感じられるようになってきました。そうして、経済学に次第に興味を持つようになります。しかし経済学にそれなりの面白さを感じながらも、同時にそこに何か腑に落ちないものを感じてもいました。そんななか、歴史学と出会うきっかけになったのが、鹿野政直先生(当時早稲田大学文学部教授として日本近現代史を教えておられました)の『鳥島は入っているか』という本でした。この本の、鳥島のような小さな端っこの島であっても地図から消してしまいたくはない、つまりどんな小さな存在でもそれを無視したくはないというメッセージは、当時の私には衝撃でした。自分が経済学に感じていた腑に落ちない部分はここにあったのか、と気づかされました。
 私が感じていたのは、全体的効率性を重んじる経済学という学問の、ある種の「冷たさ」だったのです。社会科学は全体を支配する法則=理論を重んじる傾向があります。とりわけ経済学は全体の効率をいかにして高めるかということを重視します。その結果、極論すれば、999人が幸せになるならば、1人が犠牲になってもやむをえないと言わんばかりの冷たさをも垣間見ることがあります(もちろんこれは当時の私がそう感じたということであって、すべての経済学者がそうであるわけではありませんのでご注意ください)。それに対して、鹿野先生の研究は、その犠牲にされる「1人」の立場に徹底してこだわっているように私には感じられました。当時は明確に意識していたわけではないですが、のちに反欧化の動きを研究テーマを選ぶことになったのも、西洋をモデルとする近代化の流れに反対した人々に、経済学という学問への違和感を感じた自分を重ね合わせたからではないかと、今になって考えると、そう思えるのです。こうして私は鹿野先生の他の本を次々に読んでいき、しだいに歴史学の世界へと引き込まれていったのです。そして鹿野先生にお願いして授業を聴講させてもらい、ほかにも卒業単位には加算されないにもかかわらず、随意科目として登録可能な枠をすべて利用して、文学部に設置されていた科目を手当たり次第聴講しました。兼築信行先生の日本書誌学や、瀬野精一郎先生の古文書学・日本史講義はとても話が面白かったことが記憶に残っています。

研究テーマにたどりつくまで

 以上のように歴史に興味を持った私は、学部3年の時に、三和良一先生の日本経済史のゼミに所属することを選びました。当時はバブル経済の余韻まだ冷めやらぬ頃で、日本は世界トップレベルの経済大国だという認識が広く共有されていました。ゼミの多くの学生が、日本経済の成功の原因は何か、ということに関心を持っており、私も当初はそうした雰囲気に流され、戦前の近代化と戦後の高度経済成長に、日本はなぜ成功したのか、ということを調べてみようと考えました。ただ前述のように、歴史学に興味を持ちはじめていたことから、単なる経済史ではなく、政治史や思想史も視野に入れ、だれか特定の一人の人間を軸にして、この問題を考えてみたいと考えました。そこでまず手始めに、明治初期に近代化を推進しようとした人々について、その伝記をむさぼり読むようにしました。
 このようなかたちでたくさんの伝記を読んだのですが、当初の目的とはうらはらに、近代化に貢献したとされる政治家や実業家の伝記を読むよりも、むしろ近代化に反対した人の伝記を読むことの方が面白く感じられました。当時はそれがなぜだかは自分でも明確にはわからなかったのですが、既に書いたように、経済学という学問への違和感の延長線上に、その感覚があったのではないかと思います。特に私が興味を持ったのは、西村茂樹という人物でした。西村は、明六社に在籍する洋学者でありながら、急激な西洋化に反対した人物です。特に、秩禄処分や廃刀、地租金納化などの、明治維新の根本的な政策にまで反対していることは、彼が洋学者であることを考えると、とても不思議に思えました。そこでこの西村という人物について深く調べてみたいと思うようになり、卒業論文のテーマに据えることにしたのです。ゼミの指導教授だった三和良一先生には、自分は歴史学に興味があり、大学院で日本史を学びたいと考えているということを話して、経済史のゼミであるにもかかわらず、思想史で卒業論文を書くことを許してもらいました。
 そして1996年、早稲田大学大学院文学研究科修士課程に入学しました。しかし、私は学問を始めたのが遅く、大学院の先輩や同期生と自分との間にはとてつもない学問的蓄積の差があると感じました。そしてなんとかその差を詰めようと必死で勉強しました。毎日図書館の閉まる時間まで勉強して、それから千葉の自宅に帰るともう0時を廻っていました。図書館からの帰途、ライトに照らされた本部キャンパスの古い建物(当時はまだビルのような校舎はありませんでした)を眺めると、とても充実した気持ちになりました。研究テーマとしては、卒業論文から引き続いて西村茂樹を対象に据え、何とか2年間で修士論文を提出することができました。
博士後期課程に入ってからは、西村だけでなく、欧化主義に反対の立場を取った人々をより幅広く総合的にとらえてみたいと考えるようになり、鳥尾小弥太という人物や、彼が率いていた政党「保守党中正派」に関する論文を執筆したりしました。ただ博士後期課程に入ってからは、家族の病気など私的な問題をいろいろと抱え、また生活費を稼ぐ必要もあって研究に思うように専念できず、深く悩みました。研究をやめようかと何度思ったかわかりません。幸いなことに、悩みを打ち明けたところ、自分のことを差し置いてまで懸命に励ましてくれるすばらしい先輩や先生に恵まれて、なんとか研究を続けることができました。多い時には4つの仕事を掛け持ちしていて、とにかく時間がないことに悩み、正規の授業にすら出れないこともありましたが、そうした苦境が却って自分を焦らせ、緊張感を持続させることにもなったように思います。アルバイトに行く電車の中で、わずか5分ほどの乗車時間であっても、1ページでも多く読もうと本にかじりついたりなど、文字通り一分一秒を惜しんで勉強したことは、今となってはとてもいい思い出です。その反面、他の大学院生なら当然しているはずの学会・研究会等の活動にあまり参加できなかったのは、少々心残りに思っています。
 2003年に日本学術振興会特別研究員に採用された頃から、博士論文の執筆を視野に入れるようになりました。博士論文をいざ本格的に執筆しようという段階になって、反欧化の動きを総合的に捉える形で研究対象を広げることが、かえって個別的な部分の検証をおろそかにすることにつながるのではないか、また、西村茂樹一人をまとめるだけでも優に博士論文を構成できるだけの労力を要するのではないか、との指導教員の先生方のアドバイスもあって、2005年頃からは再び西村に対象を絞って執筆に取り組むようになり、2009年に論文「西村茂樹研究‐明治啓蒙思想と国民道徳論‐」で博士(文学)の学位を取得、幸いに科学研究費補助金研究成果公開促進費の交付を受けることができ、思文閣出版から同じ題名で出版することができました。今後は、当初博士論文として考えていた反欧化の潮流全般に関して、継続的に取り組んでいきたいと考えています。
 なお、私は1998年からアルバイトとして早稲田大学大学史資料センターに勤務し、当時大学史資料センターに設置されていた「高田早苗研究部会」の資料収集の業務を担当しました。2001年には嘱託として採用され、レファレンス、展示、史料整理などに従事しました。こうした業務のなかで、大学史や早稲田に関係する人物にも興味を持つようになっていきます。2003年に日本学術振興会特別研究員に採用されたことからセンターを一旦退職したものの、2006年に再び採用され、2011年3月に退職するまで、『大隈重信関係文書』の翻刻・出版に従事しました。こうしたなかで執筆した論文をもとに、2010年、早稲田大学学術出版助成金の交付を受け、『東京専門学校の研究』を早稲田大学出版部より刊行していただくことができました。現在は、大学史に加えて、大隈重信にも関心を抱いており、少しずつ研究を進めているところです。近い将来、何らかの形にできたらと考えています。

文学研究科で学んだこと

 大学院修士課程に入学してから博士論文を書き上げるまで、指導教員として、一貫して安在邦夫先生のご指導を仰いできました。安在先生は、たいへん暖かいお人柄の先生で、私生活でいろいろな悩みを抱える私をいつも気遣ってくださり、公私の難局を幾度も救っていただきました。そのご厚恩には本当に感謝してもしきれません。このほか、鹿野政直先生、由井正臣先生、大日方純夫先生、鶴見太郎先生という、錚々たる先生方に指導を受け、歴史学のいろはも知らない状態から、何とか博士論文を執筆し世に問うことができるところまで成長させてもらいました。
 文学研究科日本近現代史ゼミの良いところは、まず第一に、自由なところです。他大学や他研究科では、教員の問題関心に応じて学生の研究対象が制約される事例をしばしば耳にしますが、私の接した先生方は、みな学生の主体的姿勢を重んじ、自由に研究テーマを設定することを許してくれました。そして教員は決して学生に権威的に接することなく、学生と誠実に向き合い、どんなつまらない発言にも耳を傾けてくれました。もちろん自由だからといって、それはゼミに特定の学風が存在しないということではありません。文研日本近現代史ゼミの全般の学風は、理論(論理構成)と実証(史料による細かな裏付け)とのバランスを重視するところにあるように思います。とにかく細かい事実を明らかにすることに意味があるという類の微細な実証の殻に閉じこもった報告も、外から理論を持ってきてその物語の型に対象をおしこめたりする報告も、どちらも近現代史ゼミでは批判の的になりました。どんな理論も実証の裏付けなくして意味はなく、また逆にどのような実証もしっかりした問題意識と論理構成なくして意味を持たない、というのが近現代史ゼミの先生方の共通認識であったように思います。
 さらに、日本近現代史ゼミの良いところは、近現代史を専門とする3人の先生が、それぞれ別個に研究指導を行うのではなく、一堂に会してゼミ形式で研究指導を行うところにあります。全国を探しても、このような形で研究指導を受けることのできるところはほとんど無いのではないでしょうか。歴史の見方は一つではありません。歴史はどの角度から、どんな手法でアプローチするかによって、見え方も全然異なってきます。ですから、こうした複数の教員から多角的に、時には教員同士でも意見が反することすらあるような形で指導を受けられるということはとても有益なことです。一人の指導教員がまるで殿様のように君臨するという、ただ一人の教員にのみ研究指導を受けるという形式の大学院ではありがちなことも、文学研究科日本近現代史ゼミでは一切ありません。複数の教員が参加するがゆえに、教員の側も緊張感を持って指導を行うことになりますし、だからこそ、非常に厳しい指摘も間々受けることになりますが、それが学生にとっての大きな成長の糧となっているように思います。
 私も2011年度より教員としてこのゼミに参加することになります。大日方・鶴見両先生のような大先生を前にして、まるで学生のような緊張感を感じていますが、鹿野先生をはじめとする大先生方が築いてきた貴重な伝統をいかにして受け継ぎ、発展させていけるのか、自らの責任の重さをかみしめながら、少しでも学生・大学・社会に貢献できるよう、頑張っていきたいと思っています。

ウェブサイト作成について

 最後に、本サイトの趣旨説明を兼ねて、私のウェブサイト作成の履歴を述べておきたいと思います。サイトを作成したのは、大学院博士課程在学中だった2000年2月に「明治保守政治思想史研究」と題するサイト(のち「明治史研究」と改題)と、その下部サイトの「明治史研究のためのリンク集」を作ったのが最初でした。自分の研究を広く世の中に知ってもらいたいということと、自分の備忘録を兼ねて研究に役立つリンク集を作成したい、というのが当初の動機でした。自分の研究紹介の方はコンテンツ追加がはかばかしく進まずに早くから休止状態となり、「明治史研究のための古書店めぐり」というページが多少アクセスを得る程度でしたが、リンク集の方は、多くの方のアクセスもいただき、リンク依頼を受けることも多く、Yahooのディレクトリにも掲載されました。しかし、ほどなくgoogleなどの検索手段の発達したことにより、ディレクトリ型リンク集というものの必要性が低下し、自分も作成の熱意を失って、2004年頃からは、ごくまれにしか更新しない状況になってしまいました。
 一方、2006年に「明治史研究のための情報ブログ」を開設して、日本近代史関連のニュースを掲載しはじめました。2009年からは、twitterを利用して情報発信を開始するようになり、ブログの方はtwitterに投稿した内容のログを1日ごとにまとめて掲載するのが中心になりました。こちらでの更新が頻繁になる反面、以前からあったサイトの方は放置状態が続きました。
そこで2011年4月、文学学術院准教授に就任したのを機に、それまで10年以上公開していた「明治史研究」「明治史研究のためのリンク集」を、公開の必要性がなくなったと判断して閉鎖し、新たに大学のサーバーに、教員として学生向けの情報を掲載することを目的に、本サイトを開設するに至った次第です。なお、前サイトの閉鎖にあたって、「明治史研究」で掲載していた雑文の類については、ブログの方に記事を移動しました。ブログのなかに、2006年のブログ開設より古い日付の文章があるのはそのためです。
 なお、2010年からFacebookを頻繁に利用するようになりました。登録自体は2009年からしていたものの、当初は使っている知人もほとんどいないために放置していました。現在では、ほぼ毎日ログインして、更新情報を確認しています。今後、私の大学院の演習では、Facebookのグループ機能やアプリなどを活用していきたいと考えています。というのも、大学の授業支援システムCourseN@viは早稲田大学の学生に利用が限定されていますが、大学院のゼミには、他大学の学生などCourseN@viを利用できない学生も聴講することが予想されるからです。また近年、個人情報保護の観点などから、ゼミの名簿を作ることが難しくなっています。しかしSNSを利用すれば、学生同士の交流や連絡も容易で名簿代わりにもなります。またCourseN@viと違い、学校を出た後にも登録は継続されることから、音信不通になることなく連絡を取り合うことが可能になるのではないかと考えています。
 Facebookを利用している方で、私と面識のある方、あるいは、私の授業を聴講している方(または過去にしていた方)は、ぜひ検索の上、友達登録していただければと存じます。

(以上の文章は2011年4月、着任にあたって執筆したものが基礎となっています。なお現在本学では授業支援システムはCourseN@viではなくMoodleを使用していますが、大学院演習では引き続きFacebookを使用しています。)